- 震災から10年。あの日あなたはどこで震災に遭いましたか?と、この数日とても耳にした言葉なのですが
- 品川の高層ビルがものすごく揺れる。隣接しているビルもぐらぐら揺れているのがオフィスの窓越しにも分かった
- 会社に一晩は居られない、知人も職場にいないという中、豊洲に居住しているという方の家に複数人で泊めてもらう
- 有楽町に着くも、ヒールが痛くて歩けない
- 新橋駅で駅員に詰め寄る客から、駅員さんをさりげなく庇っていた人を見かける
- 東急東横線で横浜駅に辿り着く
- ジャーナリストの方達は、現地の状況を伝えなければと直後に現地入りした事を10年経った今知る
- 10年経った今、ラジオ等でたくさんの方の当時の状況を聞く度に、「当時そこまで大変じゃなかった自分」にどこか罪悪感を感じてしまう
- 平時からしっかりとしたニュースソースを持っておかないと、有事の際にどうしたら良いか分からなくなる
震災から10年。あの日あなたはどこで震災に遭いましたか?と、この数日とても耳にした言葉なのですが
わたしは新しい出向先初日だったので、ある意味すごいタイミングだった、としか言いようがない。
初日だったので、一応ちゃんとした格好をしていた事により、この後大変だったのですが(ヒール(←距離を歩くには本当にダメ)&ジャケット)。
品川の高層ビルがものすごく揺れる。隣接しているビルもぐらぐら揺れているのがオフィスの窓越しにも分かった
揺れ過ぎて船酔いのように具合が悪くなったのですが、高層階エレベーターも止まってしまい、外に出る事も叶わず(地震には対応しているビルだから、むしろ外に出るなと言われた)。
早々にフリーアドレスを実践していた会社だったので大きいキャビネットなどは社内にはなく、上から物が落ちて来るという事は100%なかったですが。
今思うと、フリーアドレス(物が最小限しかない)って、震災国の日本に合ったオフィス形態なのではと思ったりします。
メールや携帯が全然繋がらない中、当時そこまで主流ではなかったFacebookのチャットだけはすごい普通に繋がっていたので、シェアハウスの友人達とそれで連絡を取り合う。
社内にあった固定電話は数時間後に繋がったので、実家には無事の連絡をする(このとき、緊急時にはやはり固定電話なのだ、と思った)。
社内ではテレビがずっと映し出されていて、火災になった福島の様子が放映されていた…と思う。
会社に一晩は居られない、知人も職場にいないという中、豊洲に居住しているという方の家に複数人で泊めてもらう
その方の旦那さんが車で迎えに来てくれて、複数人でマンションに向かう。
マンションでも複数人で居たので、怖いとかどうしようとかは特に感じず。
ただすごいマンションだなーとか呑気に思っていた。
一晩泊めていただいて、翌朝辞去。
(でも今思うと、社内に留まれなかった意味が分からない。
着任初日の人を一晩泊める事はできない、とか言われたような…。
何があるか分からない状況の中、行き先がない人間を放り出すとか結構ひどい)。
有楽町に着くも、ヒールが痛くて歩けない
いったん有楽町に辿り着いたものの、履きなれないヒールで足が死亡。
よっぽど裸足で歩こうかと思った(やらなかったですが)。
有楽町駅の電話ボックスから無料で電話がかけられるという情報をキャッチしていたので、シェアハウスの友人に電話。
電話の列には結構な人が並んでいた。
新橋駅で駅員に詰め寄る客から、駅員さんをさりげなく庇っていた人を見かける
結局徒歩で新橋駅に到着。
でも横須賀線に乗ろうにも動いておらず。
当然駅構内はごった返していて、いつになったら電車が動くんだ!と駅員さんに詰め寄る客に、その駅員さんをすっと背中に庇って、「ああゆう人は気にしない方が良いですよ、」と言う人を間近で見る。
人の多様な側面を、すごい目の前で見たような気がした。
東急東横線で横浜駅に辿り着く
ほぼすべての電車が動いていない中、東急東横線だけは復旧していた(東急東横はほぼまっすぐな線路を敷いているので、震災に強い(らしい))。
横浜駅でバスを待っているとき、同じシェアハウスに住んでいる人とばったり遭遇。
瞬間、頭の中で「ラブストーリーは突然に」が流れた…(すごい偶然の遭遇で本当にびっくりしたし心強かった)。
どうしようもない有事の際に、お互い真正面から歩いて来て、「あ!」と気づく瞬間って人生でなかなかないような。
その後、車を持っていたシェアハウスの友人が迎えに来てくれて、複数人で乗り合いをして無事に帰宅(部屋も全然荒れてなかったです)。
…という11日、12日だったのですが。
ジャーナリストの方達は、現地の状況を伝えなければと直後に現地入りした事を10年経った今知る
当時、帰宅しなきゃと漠然と思っていた自分に対して、「ビデオニュース・ドットコム」の神保哲生さんは、都内の揺れが収まった直後に、現地に向かったのだと言うから本当に恐れ入ります(澤田大樹さんも同様に直後に現地に向かったそう)。
▼その様子がこちらの映像
そうして「ビデオニュース・ドットコム」はそれらの映像を特番として流していたそうなのです。
当時のわたしはちゃんとした情報をキャッチアップしようという気はあったものの、自分が知りたい情報がどこから発信されているかが全然分かっていなかったのですよね。
(被災した子どもたちを並べて、「今大変な事や欲しい物は何?」とアナウンサーが順々に聞いて行くTV報道は悪趣味だと思っていたのでTVは観たくなかった。)
今、神保哲生さんが撮った3.11翌朝の映像を観ると、当時のほほんとしていた自分はなんだったんだろうと思う。
そうやって、現地の現状を伝えなければと必死に仕事をしていた人ちの情報を、もっと積極的に知ろうとするべきではなかったのかとも。
10年経った今、ラジオ等でたくさんの方の当時の状況を聞く度に、「当時そこまで大変じゃなかった自分」にどこか罪悪感を感じてしまう
当日は周囲の人の助けがあったり、一緒に住んでいた友人達とFacebookで常に連絡を取り合えていたので、「本当にどうしようもない(野宿や帰宅困難者になる)状況」には陥らずに済みました。
またその後に行われた計画停電も、居住地が区域外だったので、結局ずっと普通に電気は使えていたのですよね。
様々な人の話を聞くにつけ、「そこまで大変ではなかった自分」にどことなく罪悪感を感じるのって何なのでしょう。
でも恐らくそこに罪悪感を感じる必要はなくて、ただ「大変じゃなかった自分」は運が良かったんだと思っておいて(各々その時々の状況は選ぶことができない)、以降は信頼できる情報を積極的にキャッチアップして、「たまたま運が良かった自分」に、じゃあ何ができるのか、を考えるべきなのではとも思う。
それは自粛しなければいけない、とかそうゆう精神論とか雰囲気の話ではなくて、もっと現実的なことで、寄付をするとか、ちゃんとした知識を持ってボランティアに参加するとかなのではと。
平時からしっかりとしたニュースソースを持っておかないと、有事の際にどうしたら良いか分からなくなる
これに尽きるかと。
今回のコロナ禍は荻上チキさんの「Session」に本当に助けられたと思っています(コロナ禍での美術館の取り組みや、ミニシアターを援助する基金に参加することができましたし、専門家のちゃんとした話を何度も聴くことができた)。
今社会で何が起こっているのか、何が本当に問題なのかを、真剣に伝えようしている人たちの情報を、今後もしっかりと見ていきたいです。
時事を知りたい際のオススメ番組はこちら。