「確認」した?

人生で大切なことは、自身での「確認」である、という心情の元、気になったもの・ことへは、全力で駆け寄って行きます。

シェアハウスの日常は、一種の「せつなさ」を常に含んでいると思う

どうも。

本日住人のかたの飲食店が「浴衣Day」ということで、浴衣で出かけるカップルを玄関先で見送りましたよ~(コンビニでビールを買って帰宅したタイミングでばったり遭遇)。

その会合に誘ってくれなかった事がせつないってんじゃなくて(だって浴衣を着るなら、そりゃ2人きりが良いよねと思うし)、
出かける時にこれまた玄関先で遭遇した別の住人のかたが、

せっかくだから写真を撮ってやる。3人で入って、

と言った事なのですよね。

わたしはテレワーク後で、とーぜんノーメイクで、ボロボロの格好だったので辞退したのですが、

どこかにアップする訳じゃないから大丈夫だよ、

と言われてはっとしたのは、
現状の、絶対にいつかは終わる生活(家族ではなく、他人同士で暮らしていること)の画像は、ただ「今の痕跡を残すためだけに撮られるものなのだ」とゆうことですね。

いつか、この生活の端っこを切り取った今日の写真を見て、
2023年の夏に、そう言えばこんな事があったっけね、と撮影者の人が思う日が来るのだと思ったら、とんでもなく切なくなったという。

法律での契約が何もない「他人同士の同居(シェアハウス)」って、絶対いつか終わりが来る事はもう知っている。

「家族」は嫌でも続くものだが、「疑似家族」ってすごいあっさりとその関係性が解かれるのだよな。

でもわたしは現状を永遠に続けたいと思っている訳ではなくて、
寧ろその「ひと夏の思い出(しかも強烈なやつなら余計に)」くらいがちょうど良い、とか思っているのかも。

関係性は終わるからこそ価値があるのだ、とも思っているような気もする。

…とか日常の中で思うのは、シェアハウス生活ならではなのしょう。

たぶんわたしはそんな「面倒臭い感情(すごい矛盾)」を感じていたくて、シェアハウスに引っ越したような気もしておる。

今までたくさんのコミュニティ(バイト・部活・学校・習い事多数・会社のチーム・シェアハウス)に所属したが、次の新しいコミュニティに参加すると、やっぱり古い関係性は徐々に解かれて行って、それが良いのだと思っている。

きっとわたしの性質として、「(規格内の)家族」とか「ずっと続く関係性上に留まる」とかには向いてないですよ、たぶんね。

ところで「ひと夏の思い出」、と言えばジブリの「紅の豚」で、この映画ってどのシーンもせつなさを孕んでいるのがすごい。

そしてジブリの絵柄はファンシーなのでうっかり騙されそうになるが、他作品も含め、随所で実はとんでもなく重たいものを突き付けて来て苦しい。

でもその苦しさが、ジブリ作品ってやっぱりいいな…、と思っている理由のひとつでもあるのですけれどね。

「紅の豚」は夏になると観たくなる映画。