「確認」した?

人生で大切なことは、自身での「確認」である、という心情の元、気になったもの・ことへは、全力で駆け寄って行きます。

目に入る情報(ネット、本、猫)を一切遮断して原稿を書くのだ

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…とは、尊敬する近藤康太郎さんが自著「三行で撃つ 〈善く、生きる〉ための文章塾」で書いていた文章だ(それにはキッチンが良いとも書いてあった)。

今、「KOKUYO Campus原稿用紙A4横書き20×20罫色緑50枚入り」にこの文章を書いている。
傍らには、以前購入した電子辞書「Brain」がある。
思い返すと、(一部)インターネットを生活から排除したいなどと日頃宣っていたわりには、ちょっとした部分で全く排除できていなかったのだ。
そしてその「ちょっとした部分」から奴らは密やかに這い出して来て、いつの間にか幅を効かせているのだ。

これは持論だが、インターネット(特にスマートフォン)利用時間は「魂の消失時間」だと思っている。
これは別に宗教的な意味などではない。
スマートフォンは、スクリーンを見始めた瞬間から、周囲の音が完全に消える。視界が極端に狭くなる。そして気づくと2~3時間あっという間に経っているのだ。
え。わたし今、タイムリープしちゃった?とさえ思う。
しかもその間、物事に集中しているかと言うとまったくそんな事はなくて、ほぼ「何もしていない」のにタイムリープをしているのだ。
これを魂の消失と言わずして、何と言うのだ。
ここ数年、自分は一体何回タイムリープしたのだろうか。
それなのに、くどくどと理由をつけては(疲れている、明日もまだあるさ)有効な対応策を見出そうとしていなかった。
魂の消失なんて、まったく一大事なのだから、もっと迅速に動くべきだったのだ。

インターネット以前、魂の消失時間は寧ろ「物事に集中している時間」だったような気がする。
絵を描く、音楽を聴く、本を読む、いっそ寝るという行為さえ、それに集中しており、集中したまま時間が経つ事により、魂が消失していたのだ。
マルチタスクなんてせいぜい音楽かラジオを聴きながら、もう一つの行為(勉強、物作りをするなど)を行うくらいだったはずだ。
それが今や、果てしないマルチタスク状態(主に情報のキャッチアップ)となっており、しかもその情報に行き止まりは存在しないのだ。 
その結果、全ての事に集中できていない状態になる。

近年、「クリエイティブな行為を毎日行いたい」と思っていたが、何かを作りたいというよりは、「ひとつの事に集中する時間」をきちんと持ちたかったのだと思う。
わたしはぎりぎりミレニアル世代に引っかかっており、マルチタスクがほとんど存在しなかった時間を確かに知っている。
知っているからこそ、その時間を渇望していたのだ。

そう思い、今更原稿を用紙を広げ、電子辞書(ネット接続できない)を開き、キッチンでスツールに腰掛けて文章を書いてみているのだった。
世間的に見たらある意味非効率で、この行為に意味なんてないのかもしれない。
だが今こうしている事は、自分の人生に於いては意味のある行為だと思えてならない。
皆が使っている、一見効率的な道具なんてものに恐らく意味なんてないのだ。
自分が真に心地良いと感じ、納得できる行為にこそ意味があるのだ。