「確認」した?

人生で大切なことは、自身での「確認」である、という心情の元、気になったもの・ことへは、全力で駆け寄って行きます。

日本は誘惑が多すぎる

(画像はフィリピン留学時の勉強机です。)

どうも。

本当にもぉ、「3か月くらいそのことだけに集中する(仕事もなし)」ということがやりたくて仕方ないです。

やりたいことは、

  • 勉強(英語)
  • 絵を描く
  • SUPサーフィン

なのですが。

それぞれ3か月ずつくらいがっつりやって、自分が設定しているボーダーラインを越えたい…。

以前フィリピンで、3か月間語学留学をしたのですが、あれって「英語の勉強だけをできる空間・時間」にすごい価値があったのだと思います。

学内で家事全般を全部やってもらえる事も、当然ラクではあったのですが(その時間を勉強にあててね、ってスタンス)、それよりも「異国での空間・時間の確保」がすごい重要だったなと。

異国=日本では当たり前の娯楽がない(友人に会う、飲みに行く、遊びに行く、読書、動画視聴など)ので、気持ちを別のことに持って行かれない。

加えて、学生みんな持ち物がそこまでない前提なので、ファッションや髪型がずっと同じなのは当然だし、生活雑貨も最低限以上は求めない。

フィリピンのスーパーで購入したポストイットの糊が甘かろうと(すぐに落ちて来る…)、それしかないならそれで良し。

これ日本だったら、「ポストイット 糊 強力」とかでググって、再購入している案件ですよね。

物・環境に於いて、今以上を求めない(求めようがないし、求める必要もない)」って尊かった。
勉強しかやることがなかったのよ、本当に。

もうさ、日本は凋落の一途ですし、こんなにも、コト・モノがなくても良いのでは?と思っちゃうよ。

それを凌駕するくらいの、勢いとか幸福度があればまだ良いかもだが、以前よりお金がない所に、ひたすらコト・モノが必要以上にあったらそれはアン・ハッピーでしかない気もする。
気にしなければ良いのでしょうが、こんなに溢れている物を完全に無視できるほど、人の意思って強くないと思いますしね。

世間から必要以上の物を減らして(全体に物がない=それが当たり前だと気にならないって本当にあると思う)、もっと創意工夫とか、ものごとに集中できるようにした方が幸せになれそうだよな~、とか思ってしまったのでした。

(当時のフィリピンは、日本より貧しいのだろうな、と確かに思ったが、反比例するように人のエネルギーをムチャクチャ感じられましたよ。)