「確認」した?

人生で大切なことは、自身での「確認」である、という心情の元、気になったもの・ことへは、全力で駆け寄って行きます。

長沢節著「大人の女が美しい」(初版1981年)に書かれている感覚が現代的すぎる

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長沢 節(ながさわ せつ)とは匂い立つようなラインでファッションデザイン画を描いていたかたです。クロッキーが本当に素敵すぎて震える…!

今回読んだのはこちら。

以下目次一部抜粋。

・「真実の愛はひとつ」だなんて!
・テレビはおしゃれの敵である
・とにかくモノは持たないことだ
・男らしさ、女らしさの嘘

など。

元は1981年頃(今よりもっと価値観が偏っていたであろう時代)に書かれているのだが、内容のほとんどが現代の感覚にとんでもなく近い。
そいでもし節さんが存命だったら、「アシタノカレッジ」金曜日の武田砂鉄さんがゲストにお呼びしそうだよなーとも思った次第。
(今日箱根駅伝を観ていたのだが、昨年の某大学監督の「男だろ!」発言を思い出しておるよ。)

人間一人ひとりみんなちがう個性があり、そこが人間の魅力なのだ。
穴のある人もない人もいる。
反対にある部分が出っぱってるのもいる。
みんな個性のうちだから、愛しあっているうちにもし穴をみつけたら、出っぱっているところをそこに入れせてもらってもいいし、なかったらないで出っぱっている同士が抱き合ってもいい。
なにも人と愛しあうのに「こうでなければならない」なんて決まった形などないのである。
おたがいが少しでも気持ちよくなるように、いろんな工夫をしあうのが愛であり、友情だ。
男と女のセックスだってしょせんは友情の一種だ。

何かこうゆう感覚は間違いなく愛だし、そう思える人が多く存在したらそれは素敵なのではと思う。
40年以上前にそれを公言して(そして恐らく実践していた)のは本当にすごい。

そうして戦後すぐの時代に、芸術・服飾・デザインを盛り上げた人たちの文章を読んでいると、彼らは何となく似た哲学(上記の愛の話のような)を持っていたように感じられる。

愛について。
美しいものについて。
当時の海外の感覚について(日本とは全然違う)。

そういう文章を読むと、現代はもう少しは自由で居られているはずなのに、パッションやエネルギーが俄然足りおらず、何か物足りないよな、とも思ってしまう。

どうしたら たった一度のこの身体を 使い切れるだろう
と歌っていたのは矢井田瞳なのですが、それをするには受け身でいてはやっぱりダメで、圧倒的なアウトプットが必要なのだと分かっているだが、どうにも楽な方に流されがちであることを加減改めたいと思っております。