「確認」した?

人生で大切なことは、自身での「確認」である、という心情の元、気になったもの・ことへは、全力で駆け寄って行きます。

地元に対する複雑な感情についての吐露

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放送大学入学手続きのため高校の卒業証明書をもらいに(専門学校卒業証明よりライトに行けそうだと思ったため…)、何年ぶり?っていうくらいの地元の高校の事務室へ行って来ましたよ(伺っても大丈夫ですか?と電話で確認済)。

いやもぉ懐かしすぎて目に映るものすべてが泣けるレベル。
町並みとか路線周辺とか高校校舎とか、基礎部分は全然変わっていないんだなぁ。
でもそりゃそうだよね。
東京の都市開発でもあるまいし、ちょいちょい新しくはなっているが、基礎部分はそのまま使って何も不都合はなんだろうと思う。

そいで思ったことは。
こんなに静かで(平日昼間だったこともあると思うが)平穏無事な環境にいたら、

海外に行こうとか、
多様性を身を以て実感したいとか、
すごいオシャレをしたいとか、
クリエイティブなことで自己表現をしたい!とか、
大して思わんよね…ということ。
端的に言うと、30歳時点で行われた小・中学校の同窓会で感じた強烈な違和感の正体がこれだった…とでも言いますか。

地元にずっと居て、結婚して、子供が居て暮らしてることと、
地元を出て、そこから関わった人や経験も含めて、見えてる世界が270度くらい違うんだなと思ったという。
(どちらが良い悪いとかではないです)。

高校生の時点では本当に!何も知らないハッピーな子だったので、そんなことは思い付きもしなかったのですけれどね。
その後家庭の云々で(高校卒業→地元でのフリーター時代)、もぉおおおどうしようもなく億劫な感情を
家庭=地元に抱いてしまったということも要因だと思うのですけれどね~。
(それ以降地元を出た)。

ものを知らない自分→地元
それ以降(少しはものを知れた)→地元外

という感じ…?

吉本ばななさんの小説で、唯一の身内を亡くした主人公が、
今まで片目をつぶって世界を見ていたんだわ、
というくだりがあったのですが、正にそれな。

どうして人はツラい目に遭った方が、開眼してしまうのですかね~。
そいでだいたいそれを知れた方が、後々の幅が広がったりする。
とは言え、未だにトラウマになっていることもあったりするので、そこが如何ともし難い部分でもあるのですけれど。

と、悶々とした地元訪問でした。

来世は、
地元大好き!
実家大好き!という方のグループに入りたいなー、と思っておりまする。

放送大学への書類は郵便局で速達で出したので、ぎりぎり間に合いそうです。

てか思い出したのだが、フリーター後文化服装学院に願書を出す時にも、高校に卒業証明書もらいに行ったような気がする。
その時、信頼していた世界史のせんせえ(人生観や授業がムチャクチャ興味深かったのだ)に偶然会って、
「好きなことは仕事にしない方が良いのですか?」
とか聞いたような気がする。
その答えは、
「それは人それぞれだよ、」
だったような気もする…。

人生で2回も高校に卒業証明書をもらいに行く人生も一興とゆうことで。
問題なければ、来年度から放送大学生徒になって、美術史と哲学を学びますよー。